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▼第91回 サスペンダー

 スーツ、とくに三つ揃いをご着用になるときにはサスペンダー(ズボン吊り)をお勧めいたします。ズボンをベルトで留めるのではどうしてもずり下がってしまいます。サスペンダーを使えば必ずラインが必ず整います。

写真のクリップ式サスペンダーが一番シンプルで実用的。昔ながらの釦で留めるタイプの方が本格的ではあるのですが、毎朝その日履くズボンに付け替えるのは面倒です。お腹側のクリップはクリーズライン(膝前の折り目)の真上で留めます。引っ張り上げられたラインは常に綺麗な形を保ち、ずり下がった感じがしません。背中の中央でベルトがクロスしていますが、とくに撫で肩の方はこの部分の金具が動かせるようになっているものを選んでください。金具を上方に上げればベルトが肩からずり下がることがありません。ベルトの色が白っぽいものはすぐに汚れてしまうので黒がお勧めです。

実用本位のものでは飽き足らないという方はよくベルト部分におしゃれな柄が入った1万円くらいする英国製サスペンダーをネット販売で買っておられます。腰の両脇で吊るホルスター型のズボン吊りもカッコイイものの、日本人に多い0脚を強調しがちです。サスペンダーを使うとき通常の腰バンドを併用することもありますが、腰回りが寂しく見えないための装飾に過ぎません。

▼第90回 イージーオーダー

 

 1960年頃まではオーダースーツといえばハンドメイド仕立てに決まっていました。70年代に縫製の手順を簡略化して機械で縫えるように工夫したイージーオーダーが登場します。ハンドメイドよりもはるかに安く仕立てることができ、開発した縫製工場は当時日本中にあったテーラーにイージーオーダーの導入を勧めて回りました。ところが昔気質のテーラー店主たちはなかなかこれに手を出そうとしません。ハンドメイドに比べると縫いあがりが相当見劣りしたからです。それから40年たった現在、オーダーといえばイージーオーダーが当たり前の世の中になっています。

 当社ではハンドメイド、イージーオーダーの両方を手掛けていますが、年を追うごとに後者の比率が高くなっているのが実情です。洋服を手縫いできる職人さんが高齢化して後継者がいなくなり、一方でイージーオーダーの完成度が高くなったことが大きな要因です。写真はそれまで人間の手でしかできなかったすくい縫いという縫製ができる特殊なミシンで、60万円くらいします。一部の縫製技術だけに特化した機械が多数開発され、ハンドメイドに近い仕立てが可能になりつつあります。今でもハンドメイド縫製された服の方がはるかに優れていることに間違いはないのですが、機械化されたシンプルな縫製が時代にマッチしてきていることも事実です。

89回 ドーメルとスキャバル

 

 数あるオーダースーツ向け服地の中でもドーメルとスキャバルは世界中のテーラーの間で長く最高級とされているブランドです。ドーメルはフランス、スキャバルはベルギーが発祥の地で、今も本社はそれぞれパリとブリュッセルにあるのですが、両ブランドとも生地の耳にはたいてい「メイド・イン・イングランド」の文字が織り込まれています。

 両社はいずれもマーチャントと呼ばれる生地商社で、自社の織物工場を持っていません。優れた生地をプロデュースし、出来上がった製品を世界各国にある生地の仲卸商社に提供することが仕事です。実際の織りはイギリス国内に昔から多数ある織物工場が行うので、生地の耳には「メイド・イン・イングランド」と入ります。スキャバル社は近年イタリア国内にある工場に織りを依頼することが多くなり、「スキャバル メイド・イン・イタリー」の文字を入れた生地が増えています。イタリー製の生地には軽く柔らかいという特徴があり、スタイリッシュな感覚が時代にマッチして現在世界のファッション界を席巻しているからです。

私どもテーラーは日本国内の商社から生地を仕入れるのですが、仕入れ価格は同じスキャバルでもイタリア製よりイギリス製の方が高い傾向にあります。品質はイギリス製の方が上とされているからで、カッコ良さのイタリア、実質のイギリスといえそうです。

88回 綿、麻、絹の洋服

 

 市販されている洋服生地の素材として圧倒的に多いのはウール(羊毛)で、次いでカシミアなど他の動物の毛織物、そして綿、麻、絹がよく使われます。ウールには保温性に優れ丈夫でシワになりにくいといった長所があります。逆にいえば綿、麻、絹はウールに比べて温かさや丈夫さで劣り、シワになりやすいといえます。にもかかわらず根強い人気があるのは、そうした「欠点」がそのまま長所に転じ特徴となっているからです。

 お客様に綿や麻、絹の服をお勧めするとよく「シワになりませんか」と質問されます。「なります」とお答えするしかないのですが、シワの形状がウールとは異なります。綿服には綿らしいシワが形成され、だからこそ綿の服を着ているのだなと分かります。麻服に現れる荒々しいシワにはラギッド(男性的な荒々しさ)を演出します。絹は丈夫さに欠けるのですが、それゆえに大事に扱われ、高級品であることが見た目にも明確です。それぞれの手触りや光沢も独特で、周囲の方がほとんどウールの服を着ているだけに独自性が際立つ点もひそかな楽しみとなります。

 丈夫でシワになりにくいといった機能性を追求するなら化繊と混紡させた生地が便利なのですが、仕立屋があまり使いたがらないのは高級感が失われるためです。写真はイタリア製の綿100%生地を使ったジャケット。

▼第84回 尾州物(びしゅうもの)

尾州(びしゅう)は現在の愛知県北西部に位置する尾張の異名です。奈良時代から織物が盛んだった尾州では明治末期にドイツ製のションヘル織機を導入して洋服生地を織り始めました。大正時代には地域内の豊田町に国産織機を製造する豊田自動織機が創業します。同社はその後自動車の生産を手掛けるようになり、現在のトヨタ自動車へと発展しました。昭和以降尾州は毛織物の一大産地に成長し、仕立屋の間では今も国産洋服生地の代名詞として「尾州物」という言葉が使われています。

現在日本国内で販売されている既製服の多くは中国で大量生産される安価な生地を使っているのが実情で、国産洋服地である尾州物はイギリス、イタリア製の生地と品質、値段とも同水準にある高級品です。尾州物の代表的メーカーである葛利毛織(くずりけおり)さんは大正元年創業で、今では珍しくなったションヘル織機を現役で使っていることで有名です。新型の高速織機とは比べ物にならないほど生産性の低い旧型織機を用いることがどこまで高品質につながるのか、実のところ私にもよく分かりません。しかし英国最大の織元であるテーラーロッジ社は生地を洗う過程でわざわざ川の水を使っているように、独自の手法にこだわり続けるメーカーが廉価品にはない味わいの製品を生み出していることは確かです。

▼第83回 虫くいにかけつぎ

 洋服の管理で最も気を付けるべきは虫くいです。ヤツらは化繊入りの衣料には眼もくれず、ワードローブの中でも一番の高級品を選んで齧りつきます。夏の間しまい込んでいたカシミアコートなど格好の餌食です。対策としてはとにかく防虫剤をばらまくこと。防虫剤は少し油断していとすぐに気化してしまうので思い出したらすぐに補給しましょう。気化した防虫成分は空気より重いので衣類の上部に置くことが大切です。

 それでも穴を開けられてしまったときはかけつぎ(かけはぎ)に出すしかありません。かけつぎは専門の職人さんが行う特殊技術です。小さな穴の修理にはハギレ布から引き抜いた経糸横糸を使い、虫眼鏡をのぞき込みながらピンセットを使って穴の部分で小さな織り作業を行います。柄合わせや色合わせも同時に行って穴の跡を全く分からなくする、それはもう大した技術です。

大きな傷の場合は周囲を四角に切り取って同じ大きさに切ったハギレをはめ込み、本体との境界線で織作業をします。洋服を買ったとき付いてくる余り生地はこんな時のためのものですが、見当たらなくてもズボンの内側など見えない部分の生地を少し切って使うので大丈夫。虫にやられた時はテーラーやクリーニング店さんに持って行くとかけつぎ屋さんに出してくれますが、修理代は安くはありません。マッチ棒が通るほどの穴を塞ぐのに4千円くらいかかると思って下さい。

▼第82回 手作りの釦穴

 

 ハンドメイドスーツを縫う職人さんの腕前を見るとき、ボタンホールの出来をひとつの目安にします。上着の襟穴もボタンホールのひとつで、眠り穴という作り方をしています。ハンドメイドスーツの襟穴は本体を縫い上げた後、所定の位置にノミで穴を開けて作ります。ほつれないよう切れ込みの周囲に元結(もっとい=日本髪を結うとき髪の根本を縛るこより状の紙製紐)を這わせ、生地や芯地といっしょにかがり縫いしていきます。全部手作業なのでひとつ作るのに30分くらいかかり、針目が一定の長さで揃うよう仕上げるまでには何年もの修行を要します。服地はごく薄い夏物から分厚いコート地まで種類が多く、ウール、綿、シルクなど素材ごとに針通りが異なるので経験がものをいう作業です。

写真右黄色い無地服は職人さんが手掛けたハンドメイドスーツの襟穴。左側のグレンチェック服の襟穴は縫製工場のミシンが作りました。縫製工場にはボタンホールを作るためだけに開発された専用ミシンがあり、これを使えばひとつ30秒くらいで作ることができます。機械ですので正確無比、針目は見事に揃っています。ミシンの性能が人間をしのいでいるのだからボタンホールは手で作る必要はなく機械に任せれば良い、という理屈ですが…機械で作った釦穴は一目でそれと分かりどうも面白くありません。陶芸でも型に流し込んで作った器と手作業で捻り上げた作品に味の差があるように、機械の発達につれハンドメイドスーツは手工芸に近づいてきています。

▼第81回 バンチ見本

 

 仕立屋の棚にはよく写真のようなサンプル帳が何冊も積み重ねられています。生地商社さんが発行する「バンチ見本」と呼ばれる、数十枚の生地サンプルを1冊の本のように綴じ合わせたものです。お客様がバンチ見本の中にある生地で洋服のお仕立を希望されるとテーラーは東京や大阪、神戸にある商社に電話をかけ、必要なメーター数(背広1着仕立てるためには約3m必要です)だけを注文します。商社の倉庫にはバンチ見本にある生地が反物の形で保管されていて、指定の長さに切ってテーラーに送ります。仕立屋としてはバンチ見本さえあれば元手がなくても商売ができる理屈で、20冊位のバンチ見本を鞄に詰めてお客様宅を回り注文を取る無店舗商法も成り立ちます。

 当店にもバンチ見本は置いてあるのですが、あまり使いません。それには二つの理由があります。ひとつは小さなサンプルを見ただけではお客様には柄や風合いがわかりにくいから。もうひとつはバンチから選んで注文する場合は商社の言い値で買うしかなく、仕入れ価格が高くなるためです。当店の棚には背広1着分の長さに切った洋服生地が山積みになっています。商社の営業員と顔突き合わせて交渉し1点ずつ仕入れたもので、現金払いにすればサンプル価格よりかなり安く入手できます。そのかわり在庫負担が大きくなるのですが、好きな色柄を見せられればなおも仕入れてしまい、60年経つうちに置き場に困るほどの洋服生地が溜まってしまいました。

▼第80回 チェンジポケット

右腰に二つポケットがついた上着をときに見かけるかと思います=写真。上側の小さなポケットをチェンジポケットと呼び、チェンジマネー(釣銭、小銭)を入れるものとされています。英国ロンドンに3年間住んでいたというお客様が、かの地では実用デザインだよ、と教えてくれました。ロンドンっ子は現金をあまり持ち歩かず、買い物の支払いにはカードを使うことが一般的だといいます。しかし随所で必要となるチップのために1ポンド(約130円)硬貨を何枚かここに入れておき、例えばホテルのポーターさんが荷物を部屋まで運んでくれた場合はすぐに1枚取り出して渡すのだそうです。

乗り物の切符入れとしても使われ、チケットポケットの別名もあります。新幹線の乗車券などここに入れると決めておけば降車時になってあちこち探す手間が省けそうですね。

日本においてチェンジポケットはブリティッシュな、あるいはオーダーらしい雰囲気作りのための演出として作られています。上着丈が長目な英国風スーツに合うデザインでビジネススーツにも向いています。いつものスーツにちょっと変化をつけたい場合に付けてみてはいかがでしょう。

79回 沓擦れ(くつずれ)

 ズボン裾の真後ろの部分を裏返すと、そこに横長の布が縫い付けられています。名前を沓擦れ(くつずれ)といいます。生地の耳の部分を長さ20㎝くらいに切り折りたたんで作る部品なので、耳に織り込まれたブランド名などが読み取れます。

 ズボンを履いて畳の部屋に上がると裾の後ろ部分が畳に当たり、屋内を歩き回っている間中引きずる形になっています。ズボン裾が擦り切れると取り返しがつかないので、身代わりとなるのが沓擦れです。沓擦れは裾の真後ろでズボン本体よりも1ミリだけ出っ張るよう斜めに縫い付けます。数年履けば擦り切れてくるので取り替える必要があります。沓擦れは消耗品なのです。

 わざわざ耳を利用するのは、生地の中央部分を折って使うよりも作りやすく丈夫だからです。裁断後は捨ててしまう耳部分を沓擦れとして使えば効率が良いだけでなく、耳に折り込まれた文字を見せるという効果があります。同じゼニアの生地でも、既製服用に織られた生地は耳に文字が織り込まれていません。注文服は生地の段階でお客様にお見せするので、見映えが良いようわざわざ耳にブランド名などを入れて織るのです。沓擦れに文字が読み取れるのはオーダースーツの証しです。

78回 サプールをご存知ですか

 写真はサプールを意識して仕立てた夏スーツです。サプールはコンゴ共和国に住む一群の男たちの呼び名で、NHKのドキュメンタリー番組「地球イチバン」でも紹介されて大きな反響を呼びました。以下にたくさん写真がありますがまことにカッコイイです。https://matome.naver.jp/search?q=%E3%82%B5%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%AB&slot=4&sf=1

中部アフリカに位置するコンゴ(旧ザイール)はかつてベルギーの植民地で、独立後の内戦によって社会、経済が壊滅した世界有数の貧困国です。サプールたちは普段それぞれの仕事に励み、稼いだ金を洋服につぎ込みます。彼らにとって装うことは見栄やおしゃれ以上の確固たるライフスタイルです。「ケンカはしない。服が破れるからね」と言い、スタイリッシュであると同時にエレガントであることに留意します。週末になるとスーツ姿で未舗装の道路を練り歩き洗練されたセンスと優雅な振舞いを見せつける彼らの周りを市民が取り巻き一種スターとしてまつりあげるといいます。アフリカの風土と植民地の歴史の中から生まれたサプール・ファッションの強烈な色彩感覚は、世界のデザイナーを驚嘆させています。

赤道直下の国でネクタイを締めているのですから当然暑い筈。しかし衣服は単に暑さ寒さを防ぐ道具ではありません。内面にある思想を視覚化させる自己表現の手段だということを、サプールたちは体を張って教えてくれています。
 
77回 おしゃれはやせ我慢だ

 

 今年の夏は危険な暑さが続いています。クールビズが普及したとはいえ上着を着用すべき場面は常にあり、夏用のスーツにはなるべく薄い生地を使いたいものです。写真は盛夏用にお仕立てした上着で、アニオナ(伊)の向こうが透けてみえるほど薄い超軽量素材を使いました。ウールと化学繊維を混紡して薄くて軽く、しかも丈夫な服地を織る技術は日本の御幸毛織が19470年代に開発し、その後世界中のブランド生地で使われるようになりました。ときにこの素材で仕立てた背広を着ておられる方が街を歩いていて、後ろから見るとワイシャツの柄まで透けて見え、いかにも涼しそうです。これなら炎天下でも快適かと思いきやそんなことはありません。夏は裸でも暑いに決まっています。

大人たるもの酷暑の日も裸で外出しないのは、衣服には単に暑さ寒さを防ぐ道具以上の社会性があることが分かっているからです。夏のスーツは本人がカッコよく見えるだけではなく、その日会う相手へ敬意を表し社会の格を向上させるアイテム。暑いと分かっていてなおおしゃれを貫くモチベーションは、やせ我慢にささえられています。着ていて楽で傍目にも涼しく見える超軽量素材は、男子のやせ我慢の味方となるアイテムです。

76回 沓擦れ(くつずれ)

 ズボン裾の真後ろの部分を裏返すと、そこに横長の布が縫い付けられています。名前を沓擦れ(くつずれ)といい生地の耳の部分を長さ20㎝くらいに切り折りたたんで作る部品なので、耳に織り込まれたブランド名などが読み取れます。

 ズボンを履いて畳の部屋に上がると裾の後ろ部分が畳に当たり、屋内を歩き回っている間中引きずる形になっています。ズボン裾が擦り切れると取り返しがつかないので、身代わりとなるのが沓擦れです。沓擦れは裾の真後ろでズボン本体よりも1ミリだけ出っ張るよう斜めに縫い付けます。数年間で擦り切れてくるので取り替える必要があります。沓擦れは消耗品なのです。

 わざわざ耳を利用するのは、生地の中央部分を折って使うよりも作りやすく丈夫だからです。裁断後は捨ててしまう耳部分を沓擦れとして使えば効率が良いだけでなく、耳に折り込まれた文字を見せるという効果があります。同じゼニアの生地でも、既製服用に織られた生地は耳に文字が織り込まれていません。注文服は生地の段階でお客様にお見せするので、見映えが良いようわざわざ耳にブランド名などを入れて織るのです。沓擦れに文字が読み取れるのはオーダースーツの証しです。

75回 サマー・キッド・モヘア

 

 洋服生地の大半はウール(羊毛)を原料としています。ウールは体温を保持するので冬服には向いているのですが、夏服に使うと温かい印象を与えてしまいます。そこで仕立屋は夏服にしばしばモヘア(アンゴラ山羊の毛)の生地を使います。モヘアには熱を逃がす性質があるので着ていて涼しいのです。

 写真右端の生地の耳には「ウール&モヘア」の字が織り込まれていて、ウールとモヘアの混紡糸で織った生地であることを示しています。真ん中の生地の耳には「キッド・モヘア」と入っています。キッドとは子山羊の意味で、おおむね3歳以下のアンゴラ山羊の毛をキッド・モヘアと呼び、親山羊の毛よりも繊維が細いのが特徴です。左端の生地には「サマー・キッド・モヘア」の文字が読み取れますが、これは早春に生まれた子山羊からその夏初めて剪毛(せんもう)した毛を使っていることを示しています。

 採取できる毛の量は親山羊よりも子山羊の方が少なく、サマー・キッド・モヘアはさらに少量です。生地の原材料としての値段は採取量に反比例して高価になります。




74回 ドーメル・トニック

 

 仕立服のファンにはヴィンテージ生地と呼ばれる今から数十年前に英国で織られた生地を好まれる方が結構いらっしゃいます。その代表格がトニックで、英国ドーメル社が1957年に開発した春服用の生地です。ウールとモヘア(アンゴラ山羊の羊毛)を原料とした細糸3本を綱引きの綱のようにきつく撚り合わせた太糸を原料とするので3プライと呼ばれています。固い強撚糸で織りあげた生地には張りがあり、バリッとした質感が出ます。現代の生地とは比べ物にならないほど固く厚い一方、通気性が良くシワに強いという長所があります。仕立てには力を要しますが、洋服の形になるとヨレのないカッチリした着心地が生まれます。

 おそらくは世界で最もヒットした仕立て生地でしょう。私の子供のころには先代が大量に仕入れていて、「トニックは米の飯(コメのメシ)」と口にしていました。主食である米はいくら積んでおいてもいずれ全部食べてしまうように、どれだけ仕入れても在庫として残ることはない生地だというのです。

 現代は柔らかいイタリア生地が世界を席巻していて、トニックに代表される英国製3プライ生地は全くといっていいほど流通していません。当社ではできるかぎりコレクションしてマニアックなお客様にお勧めし、当時のロールスロイスのように格調高い紳士服に仕立てています。

▼第73回  貫禄あるお腹のために

 

 相撲取りのように大きくて丸いお腹が前方にせり出している、たいへん恰幅の良いお体のお客様がいらっしゃいます。ウエストは130㎝以上ありましたが、寸法に合わせて大きく作ればよいというものではありません。

 単に寸法を大きくした上着を着ると図左のようになります。上着の前が太鼓腹によって押し出され、釦より下部分は実際のお腹よりもさらに前方向に突き出してしまいます。半球状のお腹は上着前身を前方だけでなく上方向にも持ち上げます。そのため横から見たとき本来は前下がりになるべき裾線が後ろ下がりになっています。補正するために矢印の部分を三角形に切り取って縫い合わせ(ダーツを取る形)、丸いお腹部分を包み込むような曲面を作りました。「腹ぐせ」というテクニックで、これによって矢印部分にできる縫い目は脇ポケットで隠してしまいます=図右。

 お客様のお体に服を合わせる様々な工夫をマニピュレーション(型紙操作)といい、仕立屋が得意とするところです。テレビを見ていると外国の政治家などで日本人とは比べ物にならないほどの巨体の持ち主がよく登場しますが、どなたも見映えが良のはそれぞれに腕のたつテーラーがついているからでしょう。

▼第76回 右肩下がり

 

 姿見の前で「気を付け」の姿勢を取ってみると、私の場合首が少し右に傾いているのが見て取れます。上着の裾線は水平になっている筈ですが、その両脇においた右手・左手の親指の先を見比べれば、右の親指の方が下がっています。左手よりも右手の方が1,5㎝位長いのです。よく見れば肩線も水平ではなく、左肩よりも右肩先の方が下がっています。私に限ったことではありません。誰でも利き腕側の肩が下がり、よく使う方の手が長くなる傾向が、年齢が上がるほど顕著に現れます。

 右利きの方が体を動かすときは右肩が下がる方向に体を捻る体勢を取ると力が出しやすくなります。野球、ゴルフ、相撲などのスポーツはもちろん、歯医者さんも仕立屋も手仕事するときは右肩を下げています。長くこの習慣を続けていると右肩下がりが常態となり、利き腕が伸びてくるのです。左利きの方は逆になる筈ですが、右利きほど明確ではないようです。

私どもがお客様の洋服を仕立てるときはお体が左右非対称でも美しく見えるよう考慮しなくてはなりません。右利きの方の上着は右の肩パットを厚くして右袖を長く作るのが基本ですがテニスをしている方など右手の方が左手より3㎝くらい長いこともざらで、寸法通りに仕立てるとかえって右手長が強調されてしまいます。普通の姿勢でいるとき自然に見えるようバランスを取ってお仕立てしています。

75回 裏地はキュプラ

 

 上着の内側は裏地で覆われています。裏地は肩パットやポケット布などの部品を隠すために付ける布地ですが、最大の役割は上着をスムースに着る手助けをすることです。そのためは滑りが良いことが必須条件になります。

 近年の洋服にはポリエステル製の裏地が圧倒的に多く使われています。化学繊維であるポリエステルには人工的に用途に合わせた機能性を持たせることができます。滑性をよくするだけでなく自在な色に染めることも可能で、何より安価なために既製服の裏タグにはたいてい「裏地:ポリエステル」と表示されています。優れた素材であるにもかかわらず仕立屋があまり使わないのは石油を原料とした化繊の感覚がどうしても拭えないためです。

仕立屋は裏地にもっぱらキュプラを使っています。キュプラは綿をいったん溶かし、たいへん複雑な工程を経てもう一度繊維状に加工した再生繊維です。日本の旭化成が世界の9割ものシェアを占め、ベンベルグの商標で世界中の高級衣類に素材提供しています。滑らかな感触と植物由来の有機性を併せ持っている点が魅力です。明治時代から近代的繊維産業が盛んになった甲州では甲商サベリというキュプラ製の裏地が生産されていました。凝った柄と見る角度によって変わる玉虫色が特徴で、昭和の仕立屋のご用達でした。当店では今でもこの素材を大量に抱えていて、お客様にお好みの柄を選んで頂いています。

第74回 メンタリスト

 「メンタリスト」という題名のテレビドラマがアメリカ製ドラマファンを対象とした人気投票でこの度1位を獲得しました。主人公のパトリック・ジェーンは警察の依頼に応じて殺人事件等の捜査に協力する男性で、現場を一瞥しただけで犯人が分かってしまうほどの観察眼と推理力を持っています。有能ではあるのですが傍若無人な態度で周囲の人間を激怒させるのが毎回のお約束。ノーネクタイの三つ揃いという服装が彼のトレードマークで、替えベストを着用するときもあります。しばしば上着を脱いで手に持つのですがベストは決して脱ぎません。共に行動する捜査員たちがいつもスーツを着てきちんとネクタイを締めているだけに、主人公のノーネクタイでベストというスタイルはとても目立ちます。

 ベストは紳士の象徴として季節に関係なく身に付けるアイテムです。1930年代のシカゴを舞台とした映画「アンタッチャブル」に登場するFBIメンバーは全員が三つ揃い、あるいは替えベストを着用しています。しかし合理主義で面倒くさがり屋の米国人は第2次世界大戦以降ベストを着なくなってしまいました。現代アメリカ映画には三つ揃いを着た紳士がよく登場するのですが、一般市民とは少々異なる価値観を持つキャラクターという設定になっているようです。

▼第73回 ウール
 
当店に置いてある洋服生地の多くはウール(羊の毛)で織られています。日本人が洋服を着るようになったのは明治時代以降ですが、西半球を起源とする人類は太古の昔からウールの服を着ていました。人類が文明を起ち上げた当初、約8千年前には世界各地で羊を家畜として飼いならしていたことが、当時の遺跡から羊の骨が発掘されていることで分かります。古代エジプトのファラオや紀元前ギリシャの哲学者ソクラテスが着ている白い服はウールで織られています。おそらくはもっと古く、
15千年前にラスコー洞窟に壁画を描いたクロマニヨン人もウールを身に付けていたことでしょう。まだ織物の技術はないため毛皮を使うことになりますが、いわゆる原始人のイメージとは異なります。3万年前に棲息していたネアンデタールによってすでに針と糸は発明されていました。剥いだ皮を裁断して縫い合わせ、一見したところ現代の毛皮のコートとほとんど変わらない衣服を着用していたと思われます。

72回 なぜ英国生地を使うのか

 当社で扱っている洋服生地の6割くらいは英国製で3割がイタリア製、1割が日本製です。ファッション誌に登場する新進気鋭のテーラーさんはたいてい軽くしなやかなイタリア製の生地を使っておられ、これは日本のみならず世界的な風潮でもあります。20世紀においては英国生地が世界を席巻していたのですが、戦後ゼニアに代表されるイタリア生地が急成長。今では生産量において英国に圧倒的な差をつけています。スタイリッシュなイタリア感覚が支持されているためですが、私は品質においては今でも英国製が世界一だと思っています。

 大英帝国が長く世界をリードしたのはこの国で19世紀に産業革命が起きたためです。工業の飛躍的な発展と技術革新は繊維産業において最も顕著に具現化しました。200年前に世界最高峰の生地を大量生産し、地球の裏側にまで流通させてきた歴史は今に至るまで続いているのです。英国生地には、良い服地とは丈夫で長持ちかつ仕立て映えする生地のことだという昔ながらの価値観が息づいています。

 高品質の英国製、カッコ良さ優先のイタリア製、機能的な日本製という個性の違いはあれ、一定の水準にあれば生地の値段はさほど変わりません。既製服の多くは安価な中国製生地を使用しています。

71回 テレビで見るスーツ

 テレビを見ているとたいへん仕立ての良い洋服を着ていらっしゃる方がしばしば登場します。まず目立つのはNHKのアナウンサーさん。地方局はそうでもないのですが全国放送でニュースを読む方は皆さんとても良い服をご着用なので、職場の空気というものがあるのでしょう。常に流行を取り入れた色柄やデザインを選んでいることも見逃せません。昨年はウインドウペーン(窓枠格子柄)が多用されていました。

同局が土曜お昼に放映している「バラエティー生活笑百科」で司会をなさっている落語家の笑福亭仁鶴さんが着ておられるダブルのスーツはうっとりするほど良いお仕立てで、腕の良いテーラーさんに通っておられるものと思えます。ゲストとして出演される漫才の阪神巨人さんの洋服もスバラシイ。二人揃いのスーツで小柄な阪神さんは三つ釦、巨人さんが二つ釦に仕立てておられることもあります。

 政治家では麻生太郎副首相のギャングファッションがよく話題になりますが、私が注目しているのは安倍晋三首相がよく着ておられる明るい紺無地のスーツです。数年前なら街で見かける紺スーツは黒に近い濃紺ばかりでしたが、昨年あたりからブルーと呼べるほど明るい色をよく見かけるようになりました。珍しくも首相がファッションリーダーの役割を果たした例だと思っています。

70回 ヴィンテージ生地

 

 写真はドーメル社のトニックとスキャバル社のタイタンという今から半世紀前に英国で織られた伝説的な洋服生地で、当店はこのようなヴィンテージ生地をたくさんコレクションしています。品質という点では今より優れているとさえいえ、手触りや色柄も現代とは異なるので仕立て上がると誰も着ていない無双のスーツになります。しかし長さが2,8mくらいにカットされているため一般の洋服店さんが扱うのはちょっと難しい。多くの洋服店さんに並んでいる生地は3,2m以上にカットされています。イージーオーダーの場合工場のコンピューターが裁断するので、2,8mでは生地の長さが足りないと判断されてしまうのです。

 50年前には東京神田須田町や大阪淀屋橋に輸入生地の専門商社が何軒も建ち並んでいて、私も子供のころから先代(父)に連れられて同行していました。全国の仕立屋がそこで生地を仕入れていたのですが1971年までは1ドル360円の固定相場だったので、英国生地の値段は今の3倍くらいしていました。洋服店主は商社からなるべく短くカットした生地を仕入れ、各自秘術を尽くして無駄の出ないよう裁断に工夫をこらしていました。現代では生地価格が下がって仕立て工賃が上がったために長くカットした生地を使えるようになっています。

第69回 両前のコート

シングルの紳士用上着は右手側にボタンが付いています。着用する際は左側を上にして前を合わせ、釦止めします。仕立屋用語ではこれを片前と言います。片方(左側)しか前にこないからです。写真のコートはお客様のご注文により左側、右側どちらを上にして重ねても釦をかけることのできる両前という仕立て方にしました。

19世紀の英国海軍の制服は両前になっていました。当時の戦艦は帆船が多く、ワッチ(当直)などは長時間強い海風の吹く船上に立たねばなりませんでした。シングルの上着の場合、左から風が来る場合はまだよいのですが、右側から吹く風は懐に入り体をもっていってしまいます。両前なら前合わせを逆にして着用し、風を逃がすことができます。両前の上着は海の男の象徴となり、今でも豪華客船の船長さんはたいてい両前のブレザーを着ています。

仕立屋はシングルの背広を片前、ダブルを両前と呼びます。ダブルの上着は本来左右両方とも重なるように仕立てるものですが、現代では単なるデザインとなっていて、右側を上にして着用することはできません。

68回  ハンガー便

 当社のお客様の4割くらいは岡山県外の方です。東は東京、大阪から西は九州福岡まで、わざわざ遠方から電車や自家用車に乗って岡山へ来てくださいます。ヒイキにしていた地元のテーラーさんが廃業し、他に仕立屋はいないものかとネットで探しているうちに当社のホームページを発見してくださった方がよくいらっしゃいます。

遠方のお客様のお洋服が完成すると以前は洋服箱に収めて宅配便でお送りしていたので、シワにならないようにたたんで箱詰めするテクニックも伝わっていました。近年は写真のようにハンガーにかけた形のまま送ることのできるハンガー便ができ、送る側受け取る側双方にとってたいへん便利になりました。

50年前には既製服と注文紳士服店が共存していて、私どもの町内だけで5軒のテーラーが営業していました。当時においても注文紳士服は決して安い買い物ではなかったのですが、社会人は良い服を着るものだという戦前からの認識が根強かったのです。その頃の映画を見るとごく普通のサラリーマンでもたいへん仕立ての良い背広を大事に着ていることが分かります。しかし激安をうたう既製服の量販店が台頭するにつれて全国のテーラーは次々と廃業してゆきます。近年は安価なイージーオーダーのチェーン店が増えているものの、当社のようないわゆる仕立屋は絶滅危惧種になっています。

▼第67回 体型に合った洋服
 

オーダースーツの良いところは寸法が自分の体に合うことだ、と多くの方が考えられておられることと思います。事実その通りなのですが、実は仕立屋が注視しているのは寸法よりも体型なのです。同じバスト100㎝でも胸板が分厚いスポーツマン体型の方からごく平たい胸の方までいらっしゃいます。姿勢の良い反身(はんしん)のお客様がおられる一方、長身の方はややうつむき気味の屈身(くっしん)になりがちです。肩先が下がった撫肩(なでがた)と肩線が水平一直線に見えるような怒り型では肩周りの仕立て方がまるで異なります。太ったり痩せたりして寸法は変化しても個々人に固有の体型は容易には変わりません。縫い上げた後でも寸法は直せますが体に沿うよう形を変えることは困難なので、仕立屋は採寸するときお客様の体型をよくよく確認しています。

 日ごろからジムで体を鍛えているという方が既製品の上着を着るとしばしば図のような欠点が現れます。Vゾーンが曲線になって胸の厚みがはみ出し、首回りや脇下にハの字の「抱きジワ」が出ます。縦縞の服の場合は縞柄が垂直に下りず、裾が狭まったV字に見えます(仕立屋用語で「服が拝んでいる」といいます)。前身が吊り上がって横から見ると裾線が前上りになります。寸法は合っているのに服が綺麗に見えないのは体型に合っていないからです。

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