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第63回 日米両首脳の洋服

11月にはトランプ米大統領が来日し、安倍首相と2日間に渡って首脳会談を行いました。合意内容を発表する場面では両首脳とも濃紺のスーツに明るい青無地のネクタイというペア・スタイルでカメラに収まっていました。もちろん偶然ではなく、両国足並みをそろえた同盟関係を世界にアピールする視覚的効果を狙っての服装でしょう。

 トランプ大統領は自国でもよくこのスタイルで人前に出ています。スーツはいつも無地でやや大き目サイズ。前釦を留めない着方はもはやトレードマークとなっていて、天皇陛下と会見する場面でも釦を外していました。ネクタイは青か赤の無地、あるいはレジメンタル(斜め縞)に決まっていて、ベルト下まで長く垂らしています。どうもおしゃれにはそれほど関心がないようです。

 これに対して安倍首相は国会においてしばしば色鮮やかな青のスーツを着用しています。良質な生地のハンドメイド仕立てで安いものではありません。歴代の総理大臣の中でも際立っておしゃれといえるでしょう。日米首脳会談においては首相の方からトランプ大統領のスタイルに合わせたのだと思われます。

 なお当社のお客様にも政治家の方が何人かいらっしゃいますが、どなたもお一人でご来店になってご自分で生地を選び、懐から財布を出してお支払いくださっています。

62回 チェスターフィールドコート

 

 コートの季節となりました。毎朝通勤なさっているお勤めの方がよく着ておられるのがラグランスリーブのコートです。前合わせが喉元まで閉じるステンカラーを採用し、寒さを防ぐというコート本来の役目に忠実なデザインになっています。これに対して写真のチェスターフィールドコートは襟部分が背広同様V字型に開いている点に特徴があります。胸元に冷気が入って寒いので、スカーフでVゾーンを覆うのが定番のスタイルです。ラグランコートに比べると機能よりもスタイルを優先したデザインであり、実用に徹していないからこそ文化度が高いといえます。

 チェスターフィールドは19世紀の伯爵の名前が語源といわれ、最も格式の高いコートです。平成元年2月、氷雨降りしきる新宿御苑で昭和天皇の大喪の礼が執り行われたとき、当時のブッシュ米大統領を始めとする参列者の多くが着用していたのが黒のチェスターフィールドコートでした。禁酒法時代のギャング、アル・カポネはカシミアのチェスターコートと白いシルクのスカーフがトレードマーク。最近では麻生太郎副総理がよく着ておられますね。

第61回 カシミアはなぜ高い

 

 暖かくて美しく、何より手触りが最高であるカシミアは冬のコート、ブレザー素材に最適の素材です。にもかかわらずそんなに多く出回らないのはお値段が高いためで、コートならマシンメイドしても10万円以上します。

 カシミアの原料はカシミア山羊(ヤギ)という動物の毛で、その名前は原産国であるインドのカシミール地方に由来しています。インド最北部に位置するカシミール地方はヒマラヤ山脈の西端にあたり、寒暖の差が大きい荒野です。厳しい寒さの中で生きるカシミア山羊の体は毛皮に包まれているのですが、表面に見える長くて粗い毛は生地の原料としては使われません。粗毛をかき分けた下にびっしりと生えている柔毛を、小型の熊手のような道具で搔き取って採取します。1頭当たり200gくらいしか取れません。羊なら1頭からほぼスーツ1着分の羊毛が取れるのですが、カシミアコート1着分に必要な毛を取るにはカシミア山羊30頭が必要だといわれています。数が少ない上に毛の採取に手間がかかることが高価格の原因です。もっとも近年は中国で大規模に採取されるようになり、一時に比べるとずいぶん値下がりしています。

▼第60回 ハリス・ツィード

 

 にわかに気温が下がり、ツィードで仕立てた替え上着が活躍する季節となりました。ツィードとは固くて短い羊毛を素材として織り上げた、いわばセーターのような感触の毛織物です。毛羽立った繊維の間に空気を含むので保温性があり、シワになりにくい点が特徴。中でもスコットランド産のハリス・ツィードはたいへん人気があります。

 ハリスとは企業名ではなく、イギリスの最北部に浮かぶ島の名前です。同島やその周辺では昔から羊が飼われていて、その毛で織った丈夫な生地で地元民は労働着を仕立てていました。それがタウンウエアとして商品化され地場産業となり、20世紀初頭には登録商標を打ち立ててブランド化に成功。100年のうちに英国を代表する輸出品の一つにまで成長しました。

 英国製紳士服地は世界一の品質を誇っていますが原料の多くはオーストラリアやニュージーランドから輸入した柔らかい羊毛で、これをイギリスの織物工場で織りあげてメイド・イン・イングランドの商品にしています。ハリス・ツィードはスコットランドで飼われている毛の固い種類の羊の毛が原料なので、純粋な英国産といえます。写真はハリス・ツィード協会が認定した証である商標で、お隣の島国アイルランドで織られるドネガル・ツィードと並んでツィード界の二大スターといえます。

59回 ウール(羊毛)の話

 

洋服生地の素材として圧倒的に多く使われているのはウール(羊毛)です。牧場で「ベー」と鳴いている羊を捕まえてバリカンで1頭ずつ毛を刈り取っている様はよくテレビでも放映されています。刈り取った羊毛はバラバラにはならず皮を剥いだように一塊になっています。羊の体表からはべっとりとした脂が分泌されていて、これが毛の根本部分に粘りついて毛皮のような形を留めているのです。脂分を洗い流し、櫛で梳いて整え、数本ずつをよじり合わせて糸にします。

羊毛は太古の昔から生地の原料とされていて、キリストはもちろんクレオパトラやアルキメデスが身にまとっている白い生地はどれもウールで織られています。羊は牙などの武器を持たず早く走ることもできません。人間に飼われることで天敵から守られ、何万年も生きながらえたといわれています。

洋服生地の原料としては綿や麻、絹、カシミアなども使われますが羊毛に比べればごくわずかです。化学繊維の発明によって安価で機能的な生地が大量生産されるようになっても保温力、伸縮性、耐久性など繊維としての総合力、何よりも美しさにおいて羊毛製に勝る洋服生地はできていません。化学繊維の進化にもまして羊の品種改良が進んでいるので、21世紀になった今日でも人類は羊との共同生活を続けているのです。

58回「流行は万人が軽蔑しながらも従う暴君である」

 

 タイトなラインのスーツが流行です。上着の前釦を留めると横シワが出る服を着ている若者がよくいますが、これは寸法が足りなくて生地が引き攣れていることが原因です。ズボンは細身のノータックが主流で、着用している青年に着心地を尋ねるとやや窮屈ではあるけれどストレッチ性のある素材なので座ることもできる、洋服店の店員さんに勧められるまま買ったのでこんなものかなと思っている、とのことでした。

 30年前のバブル絶頂期、洋服店には肩幅の広いダブルのスーツがずらりと並んでいました。15年前に売られている上着のほとんどはシングル三つボタン上二つ掛けでした。ズボンは圧倒的にツータックが多く、ノータックばかりになったのはごく最近のことです。流行はすぐに移り変わり現在見慣れたタイトなスーツも近い将来には「本当にあんな窮屈なスーツを着て歩いていたの?信じられない!」と言われること請け合いです。

それでも流行を取り入れることは美しい服作るための必要条件です。流行に合致し、同時にいつまでも古びない服、という矛盾を解決するのは仕立ての良さです。時代が変わっても仕立ての良し悪しは不変です。写真は46年前のテーラー業界誌に掲載されている洋服ですが、今見ても美しいのはきちんとした仕立てがなされているからです。

▼第57回 消えたダンヒル生地

 

 当社では主に英国製の生地で洋服を仕立てていて、中でもダンヒルの服地は高級品として安定した人気を誇っていました。しかし同社が一昨年紳士服生地の供給を中止したため、テーラーの店頭からダンヒルブランドの生地が姿を消してしまいました。ダンヒル社自体は健在で、世界中のショップには今日もダンヒルのマークが入ったベルトや財布、アクセサリー類、そして既製服が華やかに並べられています。

 ダンヒル社は1880年にロンドンで馬具の製造業者としてスタートしました。馬具の需要が減った20世紀以降は自動車用品、旅行用品などを手掛け、日本が高度成長期を迎えた1960年頃にはダンヒルのロゴが入りライターを持っていることがお金持ちの印でした。2000年からはサッカー日本代表のオフィシャルスーツを提供しています。

同社の看板は高級品の代名詞たる「ダンヒル」ブランド自体であり、時代に応じてその名を冠した商品を次々と開発し、世界中に供給しています。良質の原材料を調達し、優れた製造業者や先進的なデザイナーを集結させて多様なブランド商品を作ることが同社の仕事です。

これに対して紳士服地の有名ブランドであるスキャバル、ドーメルなどは100年以上前から洋服生地だけを専門に扱ってきた生地商社です。イギリスにはその他にも優れた生地ブランドが多数あり、これからも世界最高峰の紳士服地を提供してくれることでしょう。

▼第56回 「2001年宇宙の旅」の背広

 

 私の最も好きな映画はスタンリーキューブリック氏監督の「2001年宇宙の旅」(1968年)で、学生時代に観てその革新性に衝撃を受けました。現代に至るまでこれを超えるSF映画は作られていないと思っています。

映画冒頭で地球から月に向かう宇宙船の内部が映し出されるのですが、船内の乗客がごく普通の背広を着ていることに驚かされました。当時は科学が飛躍的な躍進を遂げていた時期で、21世紀の人類はぴかぴか光る宇宙服のようなものを日常的に着用することになるだろうと予想していたからです。映画の舞台となる2001年からさらに16年が経過した今年になっても私たちは相変わらず羊毛製のスーツを着て暮らしています。流行による部分的な変化はあっても、洋服の基本となる形態は日本人が初めて背広を目にした江戸時代から今日まで全く変わっていません。

現代人のスーツは18世紀末ナポレオン時代の軍服が原型となっていて、それ以前に貴族たちが着ていた服とはデザインも機能も異なっています。政治体制が王政から民主主義、平等主義に移行したことで服飾の革命が起こったのです。人々の着る服は科学の進歩とは関係なく社会体制の変化に応じて変遷していくようです。

▼第55回 アイロン

アイロンは仕立て屋の必需品です。写真は私が使っているタキイ電器社製7型アイロン。同社は東大阪市で戦前からプロ用アイロンだけを作っている専門メーカーで、老舗の仕立て屋の多くが同社製品を使っています。スチーム機能などはなく、ひたすら重くて頑丈な点が特徴です。7型は2,8㎏ありますが、仕立て屋はしばしばハンドルの上に覆いかぶさるようにして上半身の全体重をかけて使っています。

 ご家庭のアイロンは主にシャツやハンカチのシワを伸ばすために使っておられると思いますが、仕立て屋では洋服の形を作るために使うので、使用法がまるで違うのです。アイロン遣いで生地や芯地を歪めて洋服に立体感を出す「くせ取り」は、機械縫いでは真似のできない手縫いの服独特の手法です。アイロンの温度と霧吹きで吹きかける水の量、当て布の厚さの3点の兼ね合い大切なのですが、昔の職人さんはアイロンは熱ければ熱いほどよいと考えている節がありました。私の父などはアイロンが熱過ぎたために生地が焦げると「どうだ焦げただろう、アイロンはこのくらい熱くして使うものだ」と威張ったりしていましたが、もちろん焼いてはいけません。7型アイロンはインターネット通販を見ると31,364円で販売されていますが一般の方が使うには重すぎると思います。

54回 ラシャ鋏

 

 写真は当社にあるラシャ鋏で、毎日洋服生地の裁断に使っています。ラシャとは厚手の毛織物を指すポルトガル語で、今でいう冬物の洋服生地のこと。幕末以降多くの西洋人が見たこともないラシャ製の洋服姿で来日するのを目にした日本人は、すぐに彼らの着ている西洋服を自分たちの手で仕立てることに挑戦しました。仕立てるためにはまず生地を裁断する必要がありますが、それまで日本にはU字型をした和鋏しかなく、これはラシャを切るには適しません。安政6年(1859年)に鍛冶屋の息子として生まれた吉田弥十郎がアメリカ製の裁ち鋏を参考にして国産第1号のラシャ鋏を作成しました。和鋏に比べてはるかに大きくて重いのですが、慣れればその重さを利用して鮮やかに切ることができます。ジョキリ、ジョキリと音を立てて刃を進める心地よさは和服の職人をも喜ばせ、西洋式裁ち鋏はたちまち日本中に広まりました。

写真左は先代が60年前に入手した鋏で、弥十郎の弟子の長太郎が作ったものです。全長34cmあって刃が長いので直線をきれいに裁断することができます。数か月に一度研ぎに出すのですが、研ぐ度に磨り減るので当初よりだいぶん小さくなりました。急カーブを切り出すときには右の八寸(24㎝)鋏の出番となります。

▼第53回 洋服の保管

 

 お客様から「洋服の保管はどうすれば良いのですか」という質問をよくお受けします。当社ではスーツをお納めするときビニールのカバーを掛けますが、これは帰宅されるまでの汚れよけなのでご自宅では外してください。箱詰めは通気性がよろしくありません。埃を防ぐ意味ではタンスが有効ですし部屋の隅にパイプを渡して掛けておくのもいいですね。

洋服の大敵は虫喰いです。虫は上質の生地ほど好みますので防虫剤は遠慮なく使い、しばらく忘れているとたいてい気化していますので小まめに追加してください。私は薬局で買ったパラゾールをやたらバラ撒いています。他に無臭性のものやナフタリン、ショウノウなどいろいろ販売されていますが使用は1種類のみと決めてください。異なる成分の防虫剤が気化して混じると化学反応を起こし、プラスチックのハンガーなど溶かしてしまいます。

 クリーニングはワンシーズンに1回で十分です。近年クリーニング技術の進歩が著しく、店頭でコミュニケーションが取れるお店ならどこでも大丈夫です。ただし持ち帰ったらすぐに針金ハンガーから肩の部分が分厚いハンガーに掛け替えることを忘れないでください。ズボンは二つ折りにするよりも写真のズボンハンガー(当社でも350円で販売しています)を裾に入れて逆さまに吊るしておくとスペースを取らず、シワも伸びてお勧めです。

▼第52回 キュプラの裏地

 

 上着をひっくり返すと内側には裏地が張られています。表地は毛羽立っているので摩擦が強く、直接身体に触れると着心地がよくありません。つるつるした生地を内側に張ることで滑りをよくしているのです。また上着の中には芯や肩パット、ポケット布などが縫い付けられているので、それを隠すためにも裏地が必要です。裏地用の布には滑りが良いと同時に見た目の美しさが要求されます。

当社では主にキュプラと呼ばれる素材の裏地を使っています。当社のみならず日本中の、いや世界中のテーラーがキュプラを愛用しています。キュプラの原材料は綿です。綿の繊維をいったん溶かし、ドロドロになったものをノズルから噴き出すことで再び繊維状にした再生繊維と呼ばれる糸がキュプラです。非常に複雑な化学的工程を経ることで美しくて滑りがよいという裏地にぴったりの性質を持った素材ができあがります。

キュプラはベンベルグとも呼ばれていて、こちらの名前の方が通りがよいかもしれません。ベンベルグは旭化成の商品名なのですが、同社が世界で流通するキュプラの約9割を生産しているのです。(残り1割はイタリアで生産されているようです)日本企業の製品が世界中の高級紳士服に使われていると思うと何だか嬉しくなります。写真は背中の部分に裏地を付けない背抜きという仕立て方です。



▼第51回 ポケットに物を入れないでください

 スーツを着る方に是非ぜひお願いしたいのは「ポケットにものを入れないでください」ということです。そんなこと言われても財布を持たないわけにはいかないではないかというご意見もあることでしょう。百歩譲ってなるべく薄い札入れを上着の内ポケットに入れ、スマートフォンを手離せない方のために泣き泣き反対側の内ポケットに入れてもよいことにいたしましょう。それ以上は絶対ダメで、脇ポケットに何か入れると外側に膨らむだけでなく必ず重みで全体の形が崩れます。

 上着の胸ポケットはチーフを入れるためについています。ズボンの後ろポケットを仕立屋はピスと呼び護身用のピストルを入れるスペースですが現代ではハンカチ入れになっています。

とはいえ手帳や名刺入れ、ペン、ときには小型カメラなど持ち運びたいものは多数あり、結局のところ私はセカンドバッグに入れています。当初はしょっちゅう忘れて取りに帰っていましたが、今では体の一部になっています。

 といいながら当社でお仕立てする上着は内側にペン入れ、名刺入れからメガネ入れ、タバコ入れまで付けることもあります。ポケットを作るのは結構時間がかかり、これを省くと仕事に手を抜いているように思われるのが辛いので無用の手間をかけています。

第50回 吊るしの洋服

 

 近年は仕立屋が作る服をオーダースーツと呼ぶ方が多いようです。40年くらい前までは注文紳士服という言葉が一般的で、戦前には単に洋服といわれていました。紳士服はテーラーに注文して仕立てるのが当たり前だったからです。

 当時において仕立て服は注文してから完成するまで時間がかかる上に高額の買い物でもありました。新入社員の任給の倍くらいはしていたのですが、それでも注文する方が多かったのは服以外にお金を使う用途が少なかったからです。自家用車でのドライブや海外旅行はもちろん、大学進学やゴルフにお金を使う国民はごく少数でした。

値段が高いという仕立て服の欠点を克服するために考案されたのが既製服です。縫製を簡略化し、あらかじめ色々なサイズの服を作っておくという画期的なアイデアによって単価を抑えることができました。完成した洋服をハンガーに吊るした形で展示するため「吊るし」と呼ばれていました。

江戸川乱歩が昭和6年に発表した探偵小説「目羅博士の不思議な犯罪」には銀座の洋服店が登場します。探偵はその店で一人の医師が既製服を買うのを見て違和感を覚え、事件解決の糸口を見つけます。医者が「吊るし」を着るのは不審だと思われていた時代のお話しで、現在ではスーツを着る男性の9割方は既製品のお店に入るようになりました。

▼第49回 人はなぜ服を着るのか その2

 前回は人間が服を着る理由として第1に寒さや日差し、外敵から身を守るためといった機能面を、第2に集団への帰属意識を高めたり身分や立場を明確にするという社会的役割を上げさせて頂きました。服装の自由度が増した現代では自己表現の手段という意義が大きくなっています。そんな難しい分類をしなくてもとにかくカッコイイ服が着たいというおしゃれ心もファッションを前進させるエネルギーとなっています。しかし仕立屋ができるだけ良い服を着るようにお勧めするのは、着用する方の恰好が良くなるからという理由だけではありません。良い服は、その日会う方への敬意を示すためのアイテムです。

 重要な会合に出席する、求婚先の家に挨拶に行くといった人生の岐路となる席にはできるだけ良い服装でのぞむ必要があります。それが「私はこの会合を重要視している、今日お会いする貴方を大切な存在だと認識している」という視覚的サインとなるからです。「私は服装にはこだわらない流儀なので外見より中身を見てください」といった自己中心的思想は他人には通じません。よれよれのシャツで先方の家を訪ねるのは「オレはアンタをさほど重要視していないよ」という意思表明となり、先さまのプライドを傷つけます。自分の流儀を押し付けるのではなくその日お会いする相手のために、服装はきちんとしてくださいますようお願い申し上げます。

▼第48回 人はなぜ服を着るのか その1

70万年前の世界を闊歩していた北京原人はすでに衣服を着用していたようです。裸では心細いし、何より寒かったからでしょう。原始の時代から服には日差しや寒さ、外敵から身を守るという機能だけでなく、集団への帰属意識を高めるという役割があったと思われます。周囲の者が服を着ていて自分だけ裸というわけにはいきません。遠いところからやってきた部族は自分たちとはセンスの異なる服を着ているのですぐによそ者だと分かったことでしょう。

もう少し時代が進むと服装によって身分や立場の差を明らかにするという役割が強くなってきます。王様は王様らしい豪華な服を、祭祀を司る神官は見るからにありがたそうな服装を必要としたに違いありません。現代においても例えば警察官はいかめしいデザインの制服を身に着けることでその役割を強化しています。

衣服は自己表現の手段でもあります。銀行員さんや弁護士さんがきちんとしたスーツ姿で顧客と会うのは、私は信用のおける規律正しい人間ですということを服装で示すためです。同じスーツを「芸術は爆発だ」と主張するアーティストが生真面目に着ていては不釣り合いな印象を与えます。

47回 ネーム

 ご注文があれば上着の内側に刺繍ネームを入れます。これは日本だけの習慣で、外国の方が見ると「なぜ服に自分の名前を入れる必要がある?盗られることがあるのか?」といぶかしむそうです。洋服が一般化する以前の我が国では、きちんとした席ではそれぞれの家の家紋が入った紋付を着ていた名残ではないかと思っています。漢字で姓を入れることが多いのですが、ローマ字つづりや頭文字だけを刺繍することもあります。「招福」「還暦記念」などの文字を入れて欲しいというご注文もあります。

 ハンドメイドスーツのネームは手振りミシンという専門のミシンを使って刺繍するのですが、こんなことができる職人さんもたいへん少なくなってしまいました。パターンオーダーなどではコンピューターミシンで入れるようになっています。

46回 千鳥格子と杉綾

 洋服生地には様々な色柄があります。千鳥格子は古くから使われている古典柄で、多くは白地に黒で菱形のような連続模様が描かれています。格子とはチェック柄のことですが、千鳥の呼び名がどこからきたものか現代では分かりにくくなっています。菱形の先端が四方に突き出たような黒糸部分の形が日本手ぬぐいなどに描かれている抽象化された千鳥に似ているのです=写真。英語圏ではこの柄をハウンド・トゥース(犬の歯)と呼びます。なるほどギザギザ模様が犬の牙のようでもあります。

 杉綾(すぎあや)も古典柄のひとつ。綾は綾織りの略で、綾織りにした生地は表面に斜め方向の畝が浮かび上がることが特徴です。杉綾は右上りの畝と左上りの畝を交互に組み合わせることで杉の葉に似た模様を作り出しています。英語での呼び名はヘリンボンですが、これはヘリングボーン(ニシンの骨)の意味。西欧人には魚の骨の形に見えるのですね。

 千鳥格子、杉綾ともオーダー洋服の世界では普遍的に使われていますが、大量生産される既製服は生地も均一化され、同じような無地調のスーツになりがちです。このたび市松模様(チェスボード・チェック)が東京オリンピックのシンボルマークに採用されました。これを機会に伝統柄の洋服が見直されると嬉しいのですが。

▼第45回 オーダースーツの値段

 当社のオーダースーツはお仕立て上り8万円から20万円の間くらいの価格帯が中心で、ずいぶんお値段に開きがあります。高価な生地を使うと高い洋服になるのだろうと思われがちで、実際にその通りでもあるのですが、仕立屋の場合生地代よりも縫製料の比率の方がずっと大きいのです。

オーダースーツの値段は生地価格と仕立て代の合計金額です。当社では同じ生地を使ってもお客様に頂戴するお会計が10万円の場合もあり18万円の場合もあります。生地代が3万円だとすると前者の場合お仕立て代が7万円、後者では15万円という理屈になります。安い方(安くもありませんが)は工場に縫製を委託するマシンメイドで、高い方は私が裁断して当社の職人さんが手仕事で仕立てるハンドメイドです。

洋服の縫製工場は数人がチームを組んだ小規模施設から日産数千着という大工場まで全国に多数存在し、料金も技術もピンからキリまであります。仲介業者を通して海外(主に中国)の工場に送る洋服店さんも珍しくありません。

 縫製工場はどこも流れ作業でスーツを作成していて、袖を縫う係の人は1日中袖ばかり縫っています。完成までに百工程以上あるので百人の腕利きが揃えばよい理屈ですが、なかなかそうはいきません。工場によって品質管理に差があるだけでなく、同じ工場でも日によって生地によって出来不出来の差は相当にあります。

ハンドメイドの場合は私が裁断し、当社の職人さんが一人で服を縫い上げます。工場なら専用ミシンを使って30秒で作る釦穴も、30分かけて手作業でかがります。同じ食材を使っても料理人さんによってまるで異なる料理ができるように、良い仕立てをすれば完成度の高いスーツができ上ります。

▼第44回 釦の話

洋服の前合わせをボタンで留める仕掛けは13世紀に発明されました。紳士服と婦人服では前合わせが左右逆になっていることにお気づきかと思います。紳士服においては右手でボタンをつまんで左手側のボタンホールに入れると手勝手がよいので右手側にボタンを付けました。女性は侍女に着せ付けてもらっていたために婦人服は侍女の右手側、すなわち着用者の左手側にボタンが付いているのです。

 19世紀の服にはたいてい布製のくるみ釦が付いています。円くて固い芯の回りを洋服の共生地でくるんで作った釦です。20世紀に入ってからは樹脂製の釦が主役になりました。色もデザインも多彩なため現在にいたるまで圧倒的に多く使われていますが、近年は自然素材の釦にも人気が集まっています。メキシコ蝶貝を削って作った釦は夏服に付けると涼しげで黒、白、茶蝶貝の3色があります。水牛の角製釦は黒っぽいものから薄茶色まであり、生地の色に関わりなく似合います。メタル(金属)釦は紺ブレなどの替え上着向き。その他ヤシの実を削ったナット釦など材料だけでも多種あり、お手持ちの洋服でも釦を替えると全く違った印象の服になります。

▼第43回 柄合わせ

 

 ストライプやチェックなどの柄のある生地で洋服を仕立てる場合、あちこちで柄合わせをする必要があります。上着の胸ポケット部分は身頃とは別の長方形の部品でできているのですが、柄を合わせると目立ちません。脇ポケットの蓋(フラップ)も本体と柄を合わせておく必要があります。チェック柄は横方向にも縞があるので前身と袖の横縞が水平方向で一直線になるよう袖付けをします。このような部分は柄が合っていないと目立つので誰でも気が付くのですが、仕立屋が一番注意しているのは背中の柄合わせです。

 縞柄の上着を背中から見たとき、襟から背へ縞が通り、同時に背中の縞柄が左右対称になるように仕立て上げます。他の部分なら柄が合っていなくても縫製途中、あるいは完成後でも修正することができるのですが、背中部分を間違えると後からではやり直しがききません。縞と縞の中間に背中心の縫い目がくるよう型紙を置いて、この部分から裁断をスタートさせます。

 背広の襟は上襟と下襟、二つの部品でできています。鎖骨のあたりに両部品を縫い合わせた縫い目が見えるかと思いますが、この部分の縞柄は少し食い違うように仕上げることが一般的です。この縫い目でも縞が合うように仕立てることも可能ですが、そうすると制服みたいな印象を与える服になってしまいます。

第42回 テレビで見る背広

 テレビを見ているとたいへん仕立ての良い洋服を着ていらっしゃる方がしばしば登場します。まず目立つのはNHKのアナウンサーさん。地方局はそうでもないのですが全国放送でニュースを読む方は皆さんとても良い服をご着用なので、職場の空気というものがあるのでしょう。常に流行を取り入れた色柄やデザインを選んでいることも見逃せません。昨年はウインドウペーン(窓枠格子柄)が多用されていました。

同局が土曜お昼に放映している「バラエティー生活笑百科」で司会をなさっている落語家の笑福亭仁鶴さんが着ておられるダブルのスーツはうっとりするほど良いお仕立てで、腕の良いテーラーさんに通っておられるものと思えます。ゲストとして出演される漫才の阪神巨人さんの洋服もスバラシイ。二人揃いのスーツで小柄な阪神さんは三つ釦、巨人さんが二つ釦に仕立てておられることもあります。

 政治家では麻生太郎副首相のギャングファッションがよく話題になりますが、私が注目しているのは安倍晋三首相がよく着ておられる明るい紺無地のスーツです。数年前なら街で見かける紺スーツは黒に近い濃紺ばかりでしたが、昨年あたりからブルーと呼べるほど明るい色をよく見かけるようになりました。珍しくも首相がファッションリーダーの役割を果たした例だと思っています。

▼第41回 仮縫い

 

 写真は先代(父)がお客様に仮縫いを試着頂いているところです。洋服の注文を頂くとその方のデザイン、寸法に合わせて生地を裁断し、それぞれの部品をシツケ糸で縫い合わせます。洋服の形になったところでお客様に着てみて頂いてイメージに合っているかどうか確認する作業が仮縫いです。

 採寸した寸法が合っているかどうか確かめるために仮縫いを行うと思われがちですが、すみません、寸法は滅多に間違えません。仕立屋は第一に洋服の肩にお客様の肩がきちんと入っているかどうかを見ています。肩先の上がっている方と下がっている方では服の形は全く違って見えます。次に胸の張りや背の丸みといった体型に洋服がどこまでそぐっているかを見ます。バストが同寸でも胸に厚みがあるお客様とちょっとうつむき加減の方では服の形がまるで異なるのです。

仮縫いは洋服が途中までできているという状態ではありません。お客様がお帰りになった後、シツケ糸をほどいて全ての部品がバラバラになった形にもどしてしまいます。修正点を補正する形で新たな線を引き直し、本縫いでは補正線に沿って縫っていきます。縫いあがった服はハンガーに掛けていてもどのお客様のものか分かるほど体型を写していて、なおかつ着たとき美しく見えるように仕立てることを心がけています。

▼第40回  トランプ大統領のスーツ

アメリカ第45代大統領に就任したトランプ氏のスーツスタイルが、米国内で話題になっています。何より特徴的なのは上着の前釦を留めない着方で、1月の野外で行われた大統領就任式ではコート、上着とも釦を外していました。

スーツの前釦は当然ながらかけるものです。ただ座っているときは前を閉じていると苦しいですし、服のラインも崩れます。気遣いある方は腰を降ろしているときは外し、立ち上がると同時にかけるという動作をよくしています。

本来の着方を実践することは相手に対する敬意の現れであり、場のグレードを高める効果があります。その一方、オーソドックス・スタイルを知った上で着崩すのはおしゃれの基本志向のひとつです。釦を外すことで親しみやすさやリラックスムードも演出できます。しかしトランプ氏の場合、大統領就任以前の写真を見ても、タキシードを着ているときでさえ前釦を外していました。意図的というよりもご本人にとってラフな着方が当たり前の習慣になっていると思われます。

現在の紳士服が完成した19世紀においてファッションの中心地はヨーロッパであり、スーツは三つ揃いが当然でした。ラフ好みのアメリカが台頭するにつれベストを着る紳士は少なくなっています。最高権力者のスーツスタイルが連日マスコミで紹介されることで、前釦を留めない男性が増えることが予想されます。

▼第39回 上着丈と股下は同寸です

 お客様のお体を採寸するとき、当社では最初に総丈を図ります。首の後ろ付根部分を触ってみると頚椎が出っ張っています。ここから床までの距離が総丈で、身長が170㎝少々の方なら150㎝くらいになります。その半分の75㎝がこのお客様の標準的な上着丈です。

 上着丈とは上着の背中心の長さのこと。脱いだ上着をうつ伏せに机の上に置いて上襟をひっくり返すと、襟裏に据えたカラークロスというフェルト状の布が見えます。カラークロスの下端から背中心の縫い目に沿って裾までの寸法が上着丈です。先に上着丈は総丈の半分が標準だと申し上げたのですが最近の流行により半分より5㎝くらい短く作ることも多くなりました。

 丈の短い上着は元々女性向けのデザインです。女性はウエストとヒップの寸法差が大きいので両方にそぐう上着を作ることが困難です。そこでとにかくウエスト回りをぴったりに作り、上着丈を短くしてヒップは上着の下から出てしまうスタイルにします。現在流行している上着丈の短い男性スーツはこれを取り入れたデザインで、ファッションが中性化している事例のひとつだといえます。なお総丈の半分はズボンの股下の標準寸法でもあるので、標準的なスーツにおいては上着丈と股下が同じ長さになります。

▼第38回 ズボンの腰回り仕立て

 既製服ズボンの多くはズボンの上端から3,5㎝下がったところに横方向に縫い目が走っています。ウエスト周りにベルト状の共生地部品を継ぐ方法で仕立てられているからです。腰回りの安定がよく、必要な生地の長さを節約できるという利点があります。

 これに対して仕立屋では、とくにタック付きのズボンの場合しばしば腰から裾まで継ぎ目のない1枚の布で作ります。このお仕立てには完成後でもウエストを大きく直し易いというメリットがあります。お仕立て後何年か経つうちにお客様が太られてウエストが10㎝以上大きくなっても、この仕立て方なら対応できるのです。

ズボンのタックはウエスト部分の生地を約3㎝ヒダ状にたたんで作ります。このヒダをほどけばワンタックからノータックへと変わり、寸法を3㎝出すことができます。既成服ズボンのウエスト出しは後ろの縫い目で行いますが、太ってくると背中ではなくお腹が出るのですから前身部分で直した方が体にそぐう筈。左右それぞれ3㎝のタックをほどいて計6㎝、背中心で左右2㎝ずつ出せば合計10㎝以上ウエスト寸法を大きくすることが可能です。オーダー洋服は長く着て頂きたいので後年体型が変わっても直すことができる仕立てがなされています。

▼第37回 右利きの方の上着

 スーツを着て鏡に向かってまっすぐ立ってみてください。右利きの方の場合、左袖からはワイシャツの袖口が見えないのに右の袖口からはたくさん出ていませんか。冷静に見ると右肩が下がり、それに連れて首が右に傾いていることもあります。50歳以上の男性なら少しも珍しくありません。学生時代に運動部に所属していた男性に特徴的で、中でもテニス選手は顕著です。テニスやゴルフ好きのスポーツマンだけでなく歯医者さんも農場、工場で働く方も皆さん毎日右肩が下がる方向に体を捻って仕事をしているためです。この特徴は年齢が高くなるにつれて進み、治るということはありません。左利きの方は左肩が下がって左腕が伸びることになります。

 仕立屋はお客様のお体の寸法を図っているときに左右の肩や腕の長さの違いをよくよくチェックしています。右利きであるにもかかわらず左肩が下がる方もときにあります。下がっている方の肩線を調整し、パットを厚くすることで対応します。腕の長さが2㎝以上違う方はざらにいらっしゃるのですが、袖の長さは1㎝少々の差に止めます。2㎝差で仕立てると手の長さの違いが明確になりすぎるからです。人間の体が左右非対称なのは当然のことで、それをバランスよく見せるのは仕立屋の仕事です。

▼第36回 スマートな方にはタック入りズボンをお勧めしています

ノータックパンツが流行中で、とくに若者向けに販売されているスーツのズボンの大部分がノータックです。ズボンのウエスト部分の生地を折りたたんだヒダをタックと呼び、ヒップ周りにゆとりを持たせる役割があります。ノータックのズボンはゆとり量が少ないので窮屈なのですが、履きやすさよりも細身なラインを優先したデザインだといえます。しかし仕立てる側からすれば太っている方はノータック、スマートな方はタック入りズボンが似合う筈なのです。

人間の腰には骨盤が入っているのでダイエットしても尻回りは極端に小さくはなりません。しかしウエスト周りには骨がないので痩せればどんどん細くなります。ドラえもんのように丸っこい体型の方ならヒップもウエストも同じ寸法ですが、細身の方はヒップに比べてウエストが細くなります。なのでスマートな方のズボンはウエストが細い分だけ上部を巾着のようにすぼめて作らなくては体のラインにそぐいません。そのためには腰回りで余っている生地を折りたためばよく、実際にそのように仕立ててみるとこれがタックになります。タックを入れてヒップ周りのラインを自然にする一方、腿から裾にかけて細身に作ればスマートなズボンができあがります。



35回  冬はツィードが人気

 

 寒い季節にはツィードで仕立てた軽くて温かいジャケットが人気です。ツィードとはセーターのようにざっくりとして毛羽立った感じのウール生地のことで、業界では紡毛(ぼうもう)と呼ばれています。

 洋服生地の多くは羊毛を原料とした糸、つまり毛糸で織られています。いささか専門的になりますが毛糸には紡毛と梳毛(そもう)の2種類に分類でき、スーツ生地のほとんどは梳毛で織られています。梳毛糸は長さ6㎝以上ある細い羊毛を梳(くしけず)り、撚(よ)りをかけながら引き伸ばして作るウール糸です。工程はたいへん複雑で、梳毛糸で織りあげた生地はシャープで近代的な雰囲気を持っています。

 これに対し紡毛は固くて短い羊毛を原料としています。撚りや引き伸ばしも甘く、手編みのセーターなどを作る毛糸をイメージしていただければよろしいかと思います。紡毛で織った生地には素朴で温かい印象があります。毛羽立った繊維の間に空気をたっぷり含むので、紡毛の洋服は実際に温かいのです。

 上写真は紡毛製ツィードの中でも一番人気のハリス・ツィードで仕立てた替え上着です。スコットランドで飼われている羊の毛を原料として現地のハリス島周辺現地で織られた地域特産品で、百年以上続くロングセラー商品です。

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